「見守る」が分からなくなったときに読んで欲しい
不登校で放任と支援を分けるために
今日も私のブログにお越しいただき、ありがとうございます。
感謝申し上げます。
前回は、居場所を探したくても金銭的な事情が続かず、選べる道がどうしても限られてしまうという、現実的な悩みについてお話ししました。
お金や場所の心配が少し落ち着いてくると、今度は家庭の中で「どこまで見守ればいいのか」という迷いが顔を出すことがあります。
「見守る」の意味が分からなくなるとき
昼を過ぎても、子どもの部屋の扉は閉じたままだったりします。
声をかけるべきか、そっとしておくべきか、その扉の前で何度も立ち止まった経験を持つお母さんは、少なくないと思います。
ある日は、声をかけたら「うるさい」と拒まれる。
次の日は、声をかけなかったことを不満そうな顔で示される。
どちらの反応が正しいのか分からず、次にどう動けばいいのか分からなくなってしまいます。
「何も言わないことが見守りなのか、それとも放っているだけなのか」という迷います。
本当に多くのご家庭からお聞きする言葉です。
この迷いは、お母さんが手を抜いているから生まれるのではありません。
むしろ、子どものことを真剣に考えているからこそ、答えが出せずに立ち止まってしまうのだと思います。
放任と過干渉のあいだにあるもの
放任というのは、子どもの状態を把握することも、必要な安全確認や支援を差し出すことも手放してしまう関わりです。
子どもに任せているつもりでも、実際には、どんな状態にあるのかを誰も見ていない状態になってしまいます。
一方で過干渉は、親自身の不安を軽くするために、子どもの行動や選択を細かく管理してしまう関わりです。
起きる時間、食べるもの、部屋の様子、スマートフォンの使い方など、目につくことすべてに口を出してしまうことがあります。
放任も過干渉も、外から見れば正反対に見えますが、根っこには「この子のために、私は何をすればいいのか」という同じ問いがあるのだと思います。
見守るというのは、この二つのあいだにある関わり方です。
状態を観察しながら、本人が選べる余地を残し、必要なときには手を差し伸べる。ということは、見守ることは、放任よりもずっと能動的な営みだということになります。
見ておきたい小さな変化
ある家庭では、お母さんが昼過ぎに起きてきた子どもへ、「今日は学校へ行くの」と尋ねていました(これは複数のご相談をもとに再構成した事例です)。子どもは「うるさい」と言って部屋へ戻ってしまいます。ただ、別の日に学校の話をせず「何か食べられそう」と尋ねると、子どもは小さな声で食べたいものを答えました。「うるさい」という言葉だけを見ると拒んでいるように感じますが、その奥には、行けない理由を自分でも説明できない苦しさや、心配をかけている申し訳なさが隠れていたのかもしれません。
見守るときに目を向けたいポイントは、次のようなものです。睡眠、食事、清潔、身体症状など生活と健康の基礎。表情、会話、怒り、不安、自己否定など心の状態の変化。家族や友人、オンライン上の交流を含めた孤立の深まり。そして、好きなことへの関心や笑顔、小さな選択など、回復を示す変化です。
別のご家庭では、お母さんが子どもの部屋の前を通るときに、物音の大きさにも自然と耳を傾けていたそうです。大きな音が続く日は気持ちが荒れているのかもしれない、静かな日は落ち着いて過ごせているのかもしれないと、言葉にせずとも感じ取っていました。子どもが好きだった動画を、また少しずつ見るようになったことに気づいたのも、そのお母さんでした。学校の話は一つも出てこなくても、その小さな変化に静かに安心したと話してくれました。
関わり方を切り替える判断
見守り方は、子どもの状態によって少しずつ形を変えていく必要があります。
心身の余力が乏しいときは、登校や将来の結論を求めず、生活と安全を支える関わりを中心にします。
眠れているか、食べられているか、安心して過ごせる時間があるか。
まずはそこを整えることが、次の一歩につながっていきます。
子どもに少し余力が戻ってきたときは、命令するのではなく複数の選択肢を示します。
そうすることで、本人が決められる余白を残すことが助けになります。
「今日は部屋で過ごす」「少し外の空気を吸いに行く」といった小さな選択の積み重ねが、子ども自身の力を取り戻す助けになっていきます。
ただ、少し動けるようになったからといって、すぐに学校や将来の話に結びつけてしまうと、子どもは再び身構えてしまうことがあります。
ここで気をつけたいのは、回復は一直線に段階を上がっていくものではないということです。
前に進んだと思ったら、また戻ったように見える日があります。
以前触れたような、再登校の後の揺り戻しも、その一つの表れです。固定的な「回復段階」に当てはめすぎず、今この瞬間の状態を、そのまま見ていくことが大切です。
家庭で交わす言葉、そして見守るだけでは済まないとき
見守っている間も、声をかけること自体をやめる必要はありません。
ただ、かける言葉の中身を、少しだけ変えてみることをお勧めしたいと思います。
「今日は学校へ行くの」ではなく「眠れた」「何か食べられそう」と、今の状態を尋ねる。
「いつまで休むの」ではなく「今、一番困っていることはある」と、本人の困りごとに焦点を当てる。
子どもが断ったときは「分かった。必要になったら声をかけてね」と、支援の入口を残しておきます。
話し始めたときは、すぐに解決策を示さず、まずその子が経験した事実と気持ちを聞くことを大切にしてほしいと思います。
「それは大変だったね」と受け止めてから、「一緒に考えた方がよいか、まだ聞いているだけでよいか」を確かめることもできます。
こうした声かけの積み重ねが、「見張られている」感覚ではなく「見ていてもらえている」感覚につながっていくのだと思います。
ただ、見守るだけで済ませてよい場面と、済ませてはいけない場面があることも、お伝えしておきたいと思います。
自傷やいのちに関わるような言葉、暴力、極端な睡眠や食事の乱れなど、安全に関わる兆候が見られるときは、見守りだけで済ませません。
本人が相談を嫌がっていても、緊急性がある場合は安全確保を優先し、医療機関や公的な相談窓口など、専門の力につながることを考えてほしいと思います。
そして、お母さん自身が限界に近づいている場合も、子どもが動くのを待つ必要はありません。一人で悩まないでください。見守るという営みは、親一人で抱え込むものではないのです。お悩みの方は個別にご相談ください。
生活が少しずつ整ってくると、次に浮かんでくるのは「勉強」という言葉かもしれません。
学校に行けるかどうかより前に、その言葉自体が、家の中でどれほど口にしにくくなっているか。
次回は、そこをもう少し考えてみたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。
どうぞ今日も良い一日でありますようにお祈りしております。
