中学受験と不登校(601)自分がどこにもいない

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思春期の子ども達の中で、自己存在感が持てない、低い子ども達がいます。
居場所を求めて学校に通っていたり、学校にはなぜか行けなくて不登校になっていたり、子どもによって状況は異なります。
しかし、自己存在感を持てていないということは同じです。
ただ、不登校になっている子ども達の方が、まだ、救われるのかもしれません。
このように書くと、「どうして学校に行けないのに、救われるなんておかしいやろ!」と厳しくお叱りを受けるかもしれません。
しかし、家と学校なら、家の方が安心、安全の場だから、家にいるのですから、そういう意味で、学校に行くよりもまだ、子どもの心は救われるのかもしれません。
言い方を変えれば、不登校の子どもの方が、まだ、自己存在感を少しは持てる可能性があるのかもしれません。
家が安心、安全の場ではないから、学校を居場所にしたり、学校の友達と遅くまで一緒にいたりすると考えると、この子どもはかなり辛い状況と言ってもいいかもしれません。
自己存在感は、「その人に代わる人が存在しない、かけがえのない存在である」というものであり、わかりやすく言うと、
「私は、今、ここに、いる。存在している。」と思えることだと思います。
たとえ、友達がいたとしても、心の奥底、根本のところで、自分の存在を自分で認められない、自分がどこに在るのかわからない、と感じているとしたら、それほど辛いものはないのです。
「自分は存在しない」
「自分がどこにもない」
これが、私が出会ってきた子ども達が、私に教えてくれたことでした。
「透明な存在」
「生きることもできない、死ぬこともできない」
「親の前にいる私は誰?」
「学校に行っていた時、教室には私ではない私が座っていた」
こう言って、最初、子ども達は暗い目をしていました。
ドラマ「最高の教師」の主題歌「ユアーズ」(菅田将暉)の歌詞にある
「しまったままの心に、わたしのふりした誰かがいる」というのも同じことを言っているように思います。
これほど辛いものはないと、私は思います。
今、学校に行っている子ども達も、そう感じている子ども達がたくさんいます。
たくさんいると思っています。
なぜなら、テストが終わって、親の顔を思い浮かべて暗い顔になる子ども達が本当に多いからです。
できなかったことに、開き直れることもなく、すぐに次のテストのために動き出すこともできず、親の顔を思い浮かべ、暗い表情になり、どうやってやり過ごすかを考えるだけで、「そこに自分はいない」という子ども達。
子ども達は、学校に行っても行かなくても、どちらでもいい。
少なくても、「かけがえのない存在」だとわかってくれて、そうなんだと思えて、実感できて、生きていてくれれば。
台風が来ていますが、学校が始まります。
北海道や長野、大阪のように、もう始まっている地域もあります。
子ども達が学校に行くことを考え、辛くなり、毎年、命を落とす子どもがいます。
大人が、子ども達がかけがえのない存在だと心から思わない限り、そして、それを子ども達に伝えない限り、子ども達の命が失われることが有ります。
子ども達、一人ひとり、みんな、かけがえのない存在です。
みんなで声をかけて、子ども達の命を守りたいです。